江戸幕府が成立するまで
徳川家康、江戸へ
1590年、小田原の北条氏が滅ぶ。
駿河の今川氏に従う三河(現在の愛知県東部)の小大名だった徳川家康は、豊臣秀吉の命で関東へ移され、江戸を本拠地とする。
関ヶ原の戦い
1600年、徳川家康と豊臣方の石田三成による関ヶ原の戦いが美濃(現在の岐阜県)で起こる。
徳川家康はこれに勝利する。
江戸幕府の成立
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開く。
江戸幕府の全国統治のしくみ
ここでは徳川家康が開いた江戸幕府について細かく見ていきましょう。
全国的なしくみ – 江戸幕府による全国支配のしくみ
江戸幕府は、全国の領地を幕府領と大名領(=藩)とに分け、大名にはその大名領の領地と農民を直接支配する権限を与えた。
これにより、幕府(≒将軍)を頂点として、その配下の各藩の大名が幕府の命令に従いながら領地と農民を統治する中央集権的な支配体制を確立した。この支配体制のことを「幕藩体制」という。
この幕藩体制により、江戸時代は将軍と大名が支配する強力な体制が確立された。この体制は、厳しい身分制度をとり、経済的な基盤は農民の治める年貢だった。そしてこの体制は、鎖国によってより強固なものとなっていった。
〈領地の割合〉
全国約3000万石の領地のうち、
- 22.7%が幕府領
→14%が幕領(天領)、8.7%が旗本領 - 75%が大名領
- 2.3%が皇室・公家・寺社領
幕領(天領)…幕府の直轄地
江戸幕府の領地は、旗本や御家人の領地を含めると、全国約3000万石のうち、およそ1/4を占める。
また、京都・大阪・奈良などの重要な都市、堺や長崎などの港町、佐渡の金山や足尾の銅山などを直接支配した。
※「石」は容積の単位で、1石=10斗。1斗=10升。1升=10合。1合=約1.8L
※1石(こく)=2俵半=約150k(1人が1年間で食べる量)。時期・場所で違いあり。
※この容積を面積換算すると、一般的に1石=300坪ほど。
※1合=約0.18L
※1石=約180L
※1俵=約60kg
大名に対する厳しい統制
江戸幕府は、大名を厳しく支配するために、大名の区分を行っていた。
- 徳川一門の大名→「親藩」
- 関ヶ原の戦い以前から従う大名→「譜代大名」
- 関ヶ原の戦い以後から従う大名→「外様大名」
外様大名は九州・四国・東北など江戸から遠いところに置き、互いに監視させた。
親藩のうち、家康の子が大名となった水戸・尾張・紀伊は「御三家」と呼ばれた。
統制するためのルール
武家諸法度:参勤交代が付け加えられる。
→参勤交代により、江戸と国元(=大名の領地)に住む二重生活が強制されたため、各藩は国元だけでなく江戸にも藩邸を設けた。
禁中並公家諸法度:朝廷に対する統制
江戸幕府単体のしくみ
江戸幕府単体のしくみとしては、以下のような役職が置かれていた。
- 将軍
- (大老)
- 老中
- 大目付:大名の監視
- 町奉行:江戸の行政・警察・裁判
- 勘定奉行:幕府の財政・天領の監督
- 若年寄:老中を助ける
- 目付:旗本の監視
- 寺社奉行:寺社を取り締まる
- 京都所司代:京都の警備、朝廷・西国大名の監視
- 大阪城代:大阪の警備、西国大名の監視
- 老中
- (大老)
江戸時代の人々(身分制度で上に組み込んでもいいかも)
人口割合
江戸時代初期の人口は約1200万人。(江戸時代末の人口は約3200万人)
身分ごとの割合は以下の通り。
- 武士:7%
- 農民:85%
- 町人:5%
- 僧侶・公家など:3%
武士
江戸時代の武士は、城下町に住み、普段は孔子の教えを研究する儒学という学問を学んでいた。
一方、鎌倉時代・室町時代の武士は、自分の領土に住み、普段は農業を行っていた。
農民
町人
僧侶・公家など
年表
1590年、小田原の北条氏が滅びる。徳川家康、江戸へ。
1600年、関ヶ原の戦いin美濃(岐阜県)
1603年、徳川家康が征夷大将軍になり、江戸に幕府を開く。
1612年、江戸幕府がキリスト教を禁止する。
1614年、大阪冬の陣
1615年、大阪夏の陣 / 武家諸法度が出される
1635年、日本人の海外渡航と帰国の禁止 / 参勤交代を定める
1637年、島原・天草一機(島原の乱)
1639年、ポルトガル船の来航禁止
1641年、オランダ商館を出島に移す
1643年、田畑の永代売買の禁止
1687年、生類憐みの令
1689年、「奥の細道」松尾芭蕉
1690年、湯島聖堂ができる
1692年、「世間胸算用」井原西鶴
1709年、将軍家宣、新井白石を登用 / 聖徳の治
1709年、将軍家宣、新井白石を登用 / 聖徳の治
1715年、「西洋紀聞」新井白石
深掘り
「征夷大将軍」
参考
JICE国土技術研究センター「人口減少していく日本」